小仏峠における茶屋跡の廃屋
小仏峠には廃屋と化した建物がいくつかある。これらはかつて小仏峠にあった茶屋の跡であるが、本稿では、これらの廃屋となった建物の歴史と背景について詳述する。
小仏峠の廃屋
小仏峠の概略
まず簡単に小仏峠の地形的および歴史的な概略を述べる。

小仏峠の鳥瞰図。手前側が神奈川県相模原市、奥側が東京都八王子市。景信山(標高727.3m)と城山(小仏城山)(標高670.4m)の間の鞍部が小仏峠であり、都県境の尾根道(奥高尾縦走路)と甲州道中が交差している場所にあたる。(出典:地理院地図タイル(シームレス空中写真)、地理院地図Vector、MapTiler Outdoor schema (© MapTiler © OpenStreetMap contributors )、 産業技術総合研究所 シームレス標高タイル(陸域統合DEM) を maplibre で加工して作成。)
小仏峠は、東京都と神奈川県の都県境に位置し、かつては武蔵国と相模国の国境、現代でも両都県の境界を成している。関東山地に属し、景信山と小仏城山に挟まれた鞍部にあたる。峠は東西に比較的直線的に通じており、相模川水系と多摩川水系を分ける明瞭な分水界となっている。地形は急峻で勾配がきつく、甲州道中において笹子峠と並ぶ難所とされた。
戦国時代以前、武蔵国から甲斐国へ通じる道は和田峠を越える案下道(陣馬街道)が一般的であり、小仏峠は主要な通行路ではなかった。江戸幕府の成立後に甲州道中が整備されると、小仏峠はその一部として利用されるようになった。甲州道中は五街道の一つで、参勤交代の際には高島藩、高遠藩、飯田藩がこの道を利用した。小仏峠の東側、駒木野には小仏関所が設けられ、通行人の監視と取締りが行われていた1。
明治以降、小仏峠は近代交通路の整備によりその役割を大きく変えた。明治21年(1888年)、甲州街道は従来の小仏峠越えから大垂水峠経由へと路線が変更された。明治34年(1901年)には官営鉄道中央東線(現在のJR中央本線)が開通し、小仏トンネルが峠を貫通している2。さらに昭和43年(1968年)には中央自動車道が開通し、同じく小仏トンネルにより峠を貫通している。現代の小仏峠は交通路としての役割を失い、主に登山道として利用されている。
江戸時代以前の小仏峠
小仏峠の地名は、行基が小仏峠の麓に宝珠寺を建立し、ここに小さな仏像を安置したことに由来するといわれている34。
戦国時代天正年間(1573年~1593年)に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠に関所を設置した。これが小仏関所であるが、当時はまだ街道が整備される前の獣道のような峠だったと考えられる。その後小仏関所は駒木野に移設され明治2年(1869年)まで存続した5。(そのため通常「小仏関所」「小仏関跡」といったら移転後の駒木野関所のことであり、本稿でもこの関所については詳説しない。)

小仏峠の上ヨリ津久井郡内ノ道を眺望の図(出典:『武蔵名勝図会』 国立国会図書館デジタルコレクション6 )。小仏峠に5軒(うち4軒は現在の「広場」に相当するところに立地している形で)描かれている。図の左下には小原宿・与瀬宿および相模川(現在の相模湖附近)が、左上にはデフォルメされた富士山が描かれている。
江戸時代に甲州道中が整備されると、甲州道中の一部として、武蔵国と相模国の国境に位置する重要な交通の要所となった。
江戸時代の小仏峠には、文献によって異なるが複数の施設が存在したと記録されている。5軒の旅籠があったとも7、宿屋3軒、茶屋1軒、鍛冶屋1軒、万屋1軒があった8ともされる。江戸後期の『武蔵名勝図会』には、峠には茶店が二、三軒あったと記されている6。これらの茶屋や旅籠は、江戸幕府によって編纂された国絵図にも特記され「五街道分間延絵図」には「武蔵相模国境字小仏峠 立場」と数棟の建物と鳥居が描かれているように、立場(休憩場)として機能していた910。
峠の茶屋では、休息する旅人たちに食事が提供された。特に、『武蔵名勝図会』には下記の通りの記載があって、多くの人々がこの赤飯を目当てに、あるいは休憩のため茶屋に立ち寄ったとされる。6
昇降二里絶頂に往来を狹て國境なり 此所に茶店あり二三軒 古より名産と号して赤飯を製す 貴賤かならず憩ふ
享保15年(1730年)に江戸から甲府へ向かった五味兵左衛門は、紀行文「道の記」のなかで、峠越えの険しい坂道の途中で茶店に立ち寄り、その有り難さを歌に詠んでいる10。文政10年(1827年)刊行の旅行案内書『甲州道中商人鑑』には、「甲州道中小佛峠名物こわめし・御ちゃづけ 藤屋源七」が掲載されており、茶屋藤屋が「こわめし」(赤飯)を名物としていたことがわかる1110。岩科小一郎の著書『山麓滞在』にも、「舊幕時代にはこゝに四五軒の茶屋があり甘酒赤飯などをひさいでゐた」と飯と共に甘酒も売られていたことが記されている。4
このように、江戸時代の小仏峠は、甲州道中の重要な通過点として、複数の茶屋や旅籠が存在し、赤飯や甘酒が供されるなど、峠を越える人々で賑わう、活気のある場所であった。
近代交通以前の小仏峠、明治天皇巡幸
明治時代前期において、小仏峠は近代交通路が開通するまでの間、甲州街道の一部として引き続き重要な役割を担っていた。
江戸時代から続く旅籠や商売の末裔も小仏峠で引き続き生活していたと考えられ、江戸時代から続く賑わいの名残を留める場所であった。武蔵屋・相州屋・藤屋・柏屋・弥勒屋の5軒の茶屋があったという12。周辺の斜面で野菜などを栽培し、ほぼ自給自足の生活をし、小集落然としていたようである。78
この時期の重要な出来事として、明治13年(1880年)6月17日には、明治天皇が山梨巡幸の際に小仏峠を越えられた。このとき小仏峠で野点をして小休止されたという記録が残されている。
小休止された茶屋が佐藤清兵衛宅であり武蔵屋であった。

御巡幸沿道神奈川県管内略図の小仏峠付近拡大図。(出典:巡幸録・(巡第七号)明治十三年巡幸雑記第七巻附属・御巡幸沿道神奈川県管内略図・一折13)佐藤清兵エ(佐藤清兵衛)の記載がある
後年昭和12年(1937年)になってからだが、これを記念して明治天皇聖蹟碑と太政大臣・三条実美の歌碑が建てられた。 この石碑は下記のとおりである(口語訳は ChatGPT に依る)。
- 明治天皇聖蹟碑
- 正面: 明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所
- 右側面: 史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和九年十一月文部省指定
- 編集注:「法ニ依リ史蹟ト」の部分は昭和二十年史蹟解除に際しセメントにて塗りつぶされている14。
- 左側面: 昭和十二年三月 建設
- 三条実美の歌碑
- 正面: 御巡幸能供奉耳天甲斐路尓天与免留
來天三礼波 古可比者多織 以東未奈之 閑非能堂比路乃 野乃遍他末能達 実美
- 読み下し文:御巡幸の供奉にて甲斐路にて詠める
来てみれば こかひはた織 いとまなし 甲斐のたび路の 野のべ山のべ 実美 - 口語訳:ここにやって来てみると、あちらこちらで蚕を飼い、機織りに大忙しで、甲斐へと向かう旅の道すがら、野や山のふもとまでもが活気に満ちている。
- 編集注:八王子市ホームページの「はちおうじ物語其の十一 地名や石碑に残る地域の記憶」では「いともなし」となっている15。 縣敏夫『八王子市旧浅川町の石仏と地誌』では「いとまなく(以東末奈久)」となっている14。 小仏峠に現在掲示してある広報はちおうじの記事では「いとまなし」となっている16。 碑文やさまざまな文献の比較から「いとまなし(以東末奈之)」と解するのが適切であろう。
- 読み下し文:御巡幸の供奉にて甲斐路にて詠める
- 背面: 明治十三年六月十六日 車駕發東京將巡山梨縣駐蹕於八王子明日 上乘板輿踰巡
小佛之險三條公以太政大臣扈從焉奉 命詣髙尾山藥王院詠國風一首遺墨蔵干院頃者模刻貞珉以傳不朽云
天野佐一郎謹撰并書
昭和十二年丁丑六月
髙尾山藥王院 淺川好史會建之- 読み下し文:明治13年6月16日、(天皇は)
車駕 を東京に発し、将 に山梨県を巡らんとして八王子に駐蹕 し給う。 明日、(天皇は)板輿 に上りて小仏の険を踰 え巡り給う。 三条公、太政大臣としてこれに扈従 す。 命を奉じて高尾山薬王院に詣で、国風一首を詠みたまう。 遺墨は院に蔵せられ、頃者 模刻して貞珉 に刻み、不朽に伝うという。
昭和12年6月 高尾山薬王院 浅川好史会建之 - 口語訳:明治13年(1880年)6月16日、明治天皇は東京を出発し、山梨県を巡幸する予定で、まず八王子にご滞在になった。 翌日、天皇は輿にお乗りになり、険しい小仏峠を越えて進まれた。 三条実美公は太政大臣としてお供をし、高尾山の薬王院に参詣し、勅命を受けて和歌を一首詠んだ。 その直筆の書は薬王院に保管されていたが、近年、石に刻んで模写され、後世に伝わるものとなったという。
- 読み下し文:明治13年6月16日、(天皇は)
- 正面: 御巡幸能供奉耳天甲斐路尓天与免留
たましん地域文化財団所蔵の絵葉書でこれらの石碑の昔の姿が確認できる。17

現在も佐藤茶屋跡の廃屋の隣にこのふたつの石碑は健在である1516が、当時は文部省管轄の史跡として管理されていたこともあり、史跡案内標識も建てられていたようである。この史跡案内標識は現存せず、現在の「高尾山詳細地図販売所」あたりの場所となる。
また今日と違ってこの写真では見晴らしが良いが、これについては後述する。
小仏峠の衰退
小仏峠越えの江戸時代からの甲州街道のルートは、馬車などの車両の通行が困難だったため、車道として通行可能な大垂水峠越えの新道が明治21年(1888年)に開通し、甲州街道のルートが付け替えられた。さらに明治34年(1901年)には官営鉄道中央東線(現在のJR中央本線)の八王子~上野原間が開通し、小仏峠直下を小仏トンネルで貫通するようになった2。こうした新しい交通路への移行により、小仏峠を通る旅人の往来は激減し寂しい峠となった。
それでも、明治の末頃まで、江戸時代から続く茶屋や旅籠を営んでいた人々の家が残っており、明治43年(1910年)6月に辻本満丸博士が撮影した小仏峠の写真にもその様子が写し出されている43。しかし、残された茶屋も不幸に見舞われる。時期は不明だが、武蔵屋・相州屋・藤屋・柏屋・弥勒屋の五軒ともこの地の茶屋が全部焼失したという。この火災の後、武蔵屋のみが昼間だけ営業を続けた12。

小仏峠の旧観。右遠景は景信山、中央のピークはヤゴ沢の頭。明治43年(1910年)6月、辻本満丸撮影(出典:高畑棟材著『山を行く』3)
しかし、街道の往来が激減した一方で、この地域の山々では林業が盛んに営まれていた。小仏峠の旧観の写真の中央左、ヤゴ沢付近が四角く伐採されていることからも、当時の林業の様子がうかがえる。伐採した木材を運搬する車の轍が道に深く刻まれている様子が記録に残されており、この地域での生産活動は続いていた。大正時代の田島勝太郎の著書『山行記』には「舊幕時代からの名高い小佛峠とは思はれぬ位の容易な上り」と記されており、道路整備が進んでいたことがうかがえる18。
ハイカーブームによる再興
この一時的な寂しさを経た後、小仏峠には新たな時代の賑わいが訪れる。それは、ハイキングや登山を楽しむ人々の増加である。昭和2年(1927年)の高尾山のケーブルカーの開通はもちろんのこと、浅川駅(現在の高尾駅)からバス路線の発達は、裏高尾の山々を安易に歩ける山とした。昭和前期には、日曜日ごとに数千人、時には一万人以上のハイカーが峠を訪れるようになった419。さらに相模川を堰き止めて人造湖である相模湖が昭和22年(1947年)に誕生してからは、湖の見学を兼ねてこの裏高尾を訪れる人が激増することとなった19。
こうしたハイカーの増加に伴い、昭和3年(1928年)に景信山の茶屋が店開きしたのを皮切りとして、峠や周辺の山には、ハイカー向けの休憩施設や茶屋が再び姿を現すようになる。8 小仏峠においては、昭和のはじめ、旅籠だった朽ち果てた建物を改造するかたちで青木茶屋が店開きした。7
大正時代には既に杉が造林され、峠の頂上も「古くもない杉がバラ〲に生へ、竹藪が片方に蔓延し」、広範囲な展望は「東方八王寺の今上つて來た溪谷が見ゆるばかり」と限定的になっていたことが報告されている18。しかし、このハイカーブームのときは樹木がしばしば伐採されていたようでハイキングに適した景観が優れていたようである。当時の状況を示す具体的な資料として、以下のものがある。
- 昭和11年(1936年):八王子市郷土資料館 編『写真でつづる八王子の歴史…』には、木々が多いながらも空が開けた小仏峠で、着物姿の女性がハイキングを楽しんだり、蓄音機を持ち込んだりしている写真が残されている20。
- 昭和32年(1957年):日本文化出版社『写真で見る日本』には、聖蹟碑と歌碑の向こうに山並みが見える写真が掲載されている21。
- 昭和36年(1961年):修道社『東京都』には、小仏峠から相模湖を眺める写真や、空が開けた周辺登山路の写真が見られる22。
- 昭和56年(1981年):『Tokico review』には、小仏峠から中央高速道路が見えることが記されている23。
小仏峠のふたつの茶屋
この時代の小仏峠には茶屋が二軒あった。ベンチやテーブルはたくさん用意されていて憩うのによい場所だった。
『高尾・陣場わくわくハイク』から当時の小仏峠附近拡大図を以下に記載する24。

平成初期の小仏峠付近拡大図(出典:『高尾・陣場わくわくハイク』24)
拡大図に茶屋が二軒描かれているが、北側タヌキの像がある方が青木茶屋であった。南側の「明治天皇巡幸碑」がある方が佐藤茶屋(武蔵屋の末裔)である。
また、地図には WC すなわちトイレがあったように描かれているが、小仏峠にはトイレは存在しない(近隣では景信山・小仏城山あるいは小仏バス停まで行く必要がある)。
青木茶屋
青木
きのこ、山菜、野草専門の店。料理は出さないが、飲み物は売っている。ベンチやテーブルはたくさん用意されているので、休むには便利。特に、夏場は、谷から吹き上げてくる風で、景信山頂より涼しいという。おみやげとして売っているうぐいす笛は、ご主人の手作りで、「技の風景」という本や新聞などでも紹介されている。 3~5月、8月~11月は毎日営業している。 24。
小仏峠の青木茶屋と、景信山で営業していた茶屋のひとつ景信茶屋青木は親戚関係にあった25。(なお景信茶屋青木は2024年に小仏城山に移転し「青天狗」に改名した26。)
青木茶屋では、きのこ、山菜、野草や飲み物が提供されていたが、いちばんの名物は、竹製の小さな笛「うぐいす笛」であった。この笛は店主の青木民夫によって製作されていたものである。青木は、戦後八王子市が農閑期の副業として行った製作技法の講習会でこの技術を習得した。彼は茶屋経営の傍ら、高尾の山から伐り出した青竹、篠竹、杉の角材など、全ての材料を地元産で賄って製作にあたっていた。当時、裏高尾町で同様に製法を学んだ人々が地域一帯のうぐいす笛生産を担い、「高尾のうぐいす笛」として多摩周辺に広まることとなった。青木自身も、笛を使って見事なウグイスの鳴き声を奏で、訪れる人々に喜ばれていた27257。

青木茶屋で売られていた「うぐいす笛」青木が作るうぐいす笛には梅の花の模様が描かれていた。(出典:『技の風景 : 多摩地域の伝統的工芸品』27)
茶屋の近くには、地蔵が置かれていた。また、数匹の信楽焼のタヌキの像が置かれており、これらはかつて青木茶屋が管理していた。地蔵と信楽焼のタヌキの像は現在も置かれており、今も昔もハイカーに親しまれている28。
タヌキ像の他にかつては「小仏峠頂上560m」という木の標が2015年頃まで立っていたが、現存しない。地図では標高548mであるため560mは誤りである。かつてあったこの標識のせいで560mという記述の資料もいくつかある。
かつて存在した「小仏峠頂上560m」標(CC-BY Guilhem Vellut)
佐藤茶屋
<茶店>
山菜、野草やきのこなどを扱うおみやげ店。3月~5月の天気の良い日は、毎日営業。 24。
佐藤茶屋は小仏峠の南側、明治天皇聖跡碑の傍らに位置していた。既述のとおり、武蔵屋の末裔の佐藤家によって営まれていた茶屋である29。
茶屋の名称は正式に決めていなかったようで、資料により小仏峠茶屋というふうに記載されているのもある8し、往時のゼンリン住宅地図のように「むさしや」と記載しているのもあった30。開店頻度も不定であったようであり、昭和62年(1987年)頃は4月から1月の雨の日を除く毎日営業8していたようだが、1990年代では3月~5月の天気の良い日は毎日営業となっていた24。
茶屋の入り口には赤い暖簾がかかっていた2431。茶屋の建物は古びた廃墟となっているものの2026年現在なんとか現存している。広場を挟んで南側(甲州道中小原宿側および東海自然歩道小仏城山側)には、かつて佐藤茶屋が管理していたと思われる休憩所として使われていた東屋状の建物がある31。こちらも屋根が大きく傾いているものの現存している。
茶屋では、周辺の山で採れた山菜やきのこといった山の幸を販売していた32。時期によっては活きマムシを売ることもあった33。サービスのお茶も提供されていたが、峠には水道が来ていなかったため、麓から運び上げた貴重な水が使われていた8。
茶屋の終焉
小仏峠の茶屋は、2000年代初頭にその歴史に幕を閉じた。

青木茶屋跡
青木茶屋は、2002年3月に店主の青木民夫が心臓病で急逝されたため閉店した34。かつて茶屋だった建物やベンチはしばらく残っていた35が、現在では母屋の一部を残して解体されている。

佐藤茶屋跡と石碑
一方、佐藤茶屋は、2000年9月時点では営業していたものの36、2001年11月に経営者の健康上の理由で休店し34、そのまま営業を再開することはなかった。かつての「武蔵屋」としての賑わいを伝える茶屋の建物は廃屋として現存しており、傍らに立つ明治天皇聖蹟碑とともに峠の歴史を今に伝えている。
茶屋がなくなった後の小仏峠は、寂しい場所となった。それでも、北側の青木茶屋跡には今も狸の置物が並び、南側の佐藤茶屋跡に残る東屋やベンチはハイカーの貴重な休憩場所であり続けている。
茶屋の消失後、小仏峠は一時寂しい場所となったが、2011年10月より「登山詳細図」の世話人である守屋二郎が、地主の許可を得て聖蹟碑の脇で地図の野外販売を開始した3738。守屋はこの場所を単なる販売所とするだけでなく、ハイカーが快適に過ごせるよう峠のメンテナンスにも尽力している。例えば、2025年11月には、有志の協力を得て傾いていたテーブルを修理し、椅子や販売台のカバーを新品に張り替えるなどの修繕作業を行っている39。
現代の小仏峠および峠への道は「鬱蒼と茂る杉林40」といった表現で、鬱蒼とした木々が描写されることが多い。実際に小仏峠に到達しても、木々が育っているためほとんど見晴らしがない。しかし、小仏峠から城山側へ階段を少し登った「浅間台(見晴広場)」と呼ばれる平場――かつて「小仏峠富士見茶屋」が存在した場所――では、現在も富士山や相模湖を望むことができる。この場所は、富士を望めることから「富士の峠」「富士見関」と呼ばれた往時の峠の面影を今に伝えている。
補足:調査できなかった茶屋
小仏峠には歴史的にいくつか茶屋があったことがわかっているが、青木茶屋と佐藤茶屋以外の詳細は分からなかった。
小仏峠富士見茶屋
青木茶屋と佐藤茶屋が閉店した後2002年からしばらくの期間存在した茶屋である。
この茶屋は、小仏峠からやや南に階段を登った平場に位置している高尾山登山詳細図においては浅間台とも呼ばれている場所である。 元々この場所にあった店は、先代の高齢の女性が亡くなった後閉じられていたが、その息子が定年を迎えたことで茶店として再開した経緯を持つ41。
2004年11月営業時の小仏峠富士見茶屋は、ずいきや山芋、天然なめこ汁、銀杏、コーヒー、ビール、ジュースなど、豊富な品揃えであった42。
しかし、この茶屋の営業は長く続かなかったようであり、営業していた頃の記録が乏しい。2005年8月には時々開いているのを見かけるだけ43という有様であり、さらに2010年11月には、廃墟になっていることが記載されており「野も山も春うらら/我が心に/春の訪れ/二人の旅路」という落書きが残されていたことが記録されている44。 2026年現在、浅間台にあったこの小仏峠富士見茶屋の建物はすでに解体されている状態にある。
柏屋(身禄茶屋)
江戸時代から明治までに小仏峠にあった茶屋(旅籠)の一つで、富士信仰と深いつながりを持っていた。
この柏屋が身禄茶屋と呼ばれたのは、富士行者である食行身禄(1671年~1733年)に由来する。身禄は富士山に登るたびに、小仏峠の柏屋に立ち寄り休息するのを常としていたため、この因縁によって柏屋は身禄茶屋とも呼ばれるようになった45。
身禄が自ら一本の木を彫って作った三体の自像のうち一体が柏屋に遺されて、柏屋が廃業した後も谷合家のもとにあったが、昭和8年(1933年)9月6日に東京都練馬区江古田の茅原浅間神社にある富士塚に移された。現在、身禄像は、神社の拝殿内に祀られている46。
柏屋・弥勒屋はこのような経緯を考えると同一だったものが誤解されてあたかも別々の茶屋として記載されているように思えなくもないが、石野瑛 著『明治天皇と神奈川県』に火災で焼失した小仏峠の茶屋(旅籠)五軒の一つとして、柏屋が弥勒屋と並んで記載されているため12、柏屋が弥勒屋と並存していたこととして執筆した。
参考文献
注:『武蔵名勝図会』の引用文中には、今日の見地に照らして、不適切と思われる表現があるが、差別的意図はなく、資料性を考え合わせ、原文のまま記載した。
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八王子市郷土資料館 編『甲州道中を旅する : 特別展』八王子市教育委員会, 1992.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/12747536 ↩
-
『鉄道作業局年報』明治38年度, 鉄道作業局, 1905 (明37.10-39.11). p.224. 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/1939432 ↩ ↩2
-
高畑棟材 著『山を行く』明文堂, 1930 (昭和5). https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1970304959920945158 ↩ ↩2 ↩3
-
岩科小一郎 著『山麓滞在』体育評論社, 1942 (昭和17). 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/1460009 ↩ ↩2 ↩3 ↩4
-
八王子市「小仏関跡」八王子市公式ホームページ. https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/005/p005202.html ↩
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植田孟縉 稿 ほか『武蔵名勝図会』多摩郡之部 巻第8, 小林幸次郎, 1925-1926 (大正14-15). (原本は文政3年(1820年)). 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/1172225 ↩ ↩2 ↩3
-
坂倉真琴 取材文「探訪奥高尾」『たまら・び』5巻4号(通号18), 多摩情報メディア, 2001. pp.37-39. ISBN: 4-87751-157-1. ↩ ↩2 ↩3 ↩4
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アサヒタウンズ 編『高尾山 : 東京の山 身近な自然を考える』朝日ソノラマ, 1987.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/12135841 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6
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『甲州道中分間延絵図』第3巻, 東京美術, 1985.5. (原本は江戸幕府撰「五街道其他延絵図 甲州道 巻第三」) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I14111100595607 ↩
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藤田覚 著「小仏峠の茶屋」『歴史書通信』No.227, 歴史書懇話会, 2016年, pp.2-4. http://www.hozokan.co.jp/rekikon/pdf/tu227.pdf ↩ ↩2 ↩3
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竹野半兵衛 著『諸国道中商人鑑』1827年. 山梨デジタルアーカイブ https://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000021-YMNS0121738 ↩
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石野瑛 著『明治天皇と神奈川県』武相学園, 1961.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/3454212 ↩ ↩2 ↩3
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縣敏夫 編著『八王子市旧浅川町の石仏と地誌』2013.3. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I024324554 ↩ ↩2
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八王子市生涯学習スポーツ部文化財課「はちおうじ物語其の十一 地名や石碑に残る地域の記憶」八王子市ホームページ. https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/monogatari/p026981_d/fil/hachioji_monogatari_11.pdf ↩ ↩2
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「歴史の散歩道40 甲州道中・小仏峠」『広報はちおうじ』1090号, 八王子市, 2005.7.1, p.16. https://www.city.hachioji.tokyo.jp/contents/kouhou/006/p003440_d/fil/koho050701.pdf ↩ ↩2
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田島勝太郎 著『山行記』昭文堂, 1926 (大正15). 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/1020508 ↩ ↩2
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市川征彦「今月の山 第6回 裏高尾」『ハイカー』(39), 山と渓谷社, 1959-01, pp.74-77. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000019529-d2295996 ↩ ↩2
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八王子市郷土資料館 編『写真でつづる八王子の歴史 : 特別展図録 明治・大正・昭和世相史』八王子郷土資料研究会, 1980.7. p.72. 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/9641985 ↩
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ぐるーぷあずまいちげ+1 編『高尾・陣場わくわくハイク』改訂版, のんぶる舎, 1994.10. ISBN: 4-931247-28-8. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002348971 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6
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八王子市市史編集専門部会民俗部会 編『八王子市西南部地域浅川の民俗』(新八王子市史民俗調査報告書 第3集), 八王子市市史編さん室, 2015.2. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I027080035 https://www.city.hachioji.tokyo.jp/shisei/001/001/013/001/p007275.html ↩ ↩2
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「R6・3月に移転致しました」奥高尾【奥高尾登山の魅力】, 2024.04.02. https://takao-okutakao.com/moved-to-r6-march/ ↩
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『技の風景 : 多摩地域の伝統的工芸品』東京市町村自治調査会, 1994.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/13110780 ↩ ↩2
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「小仏峠のお地蔵さん」奥高尾【奥高尾登山の魅力】, 2023.2.8. https://takao-okutakao.com/jizo-at-kobotoke-pass/ ↩
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「166回目の歩き」くりちゃんの高尾山歩き, 1999.5.22. http://www.kurichan.jp/main158-250/166/166main.htm ↩
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『八王子市<南部2> 2002』(ゼンリン住宅地図 東京都 24-2), ゼンリン, 2001.7. ISBN: 4-432-12784-8. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003560779 ↩
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「196回目の歩き」くりちゃんの高尾山歩き, 2000.3.18. http://www.kurichan.jp/main158-250/196/196main.htm ↩ ↩2
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「216回目の歩き」くりちゃんの高尾山歩き, 2000.10.7. http://www.kurichan.jp/main158-250/216/216main.htm ↩
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「177回目の写真 その8」くりちゃんの高尾山歩き, 1999.10.3. http://www.kurichan.jp/main158-250/177/8page.htm ↩
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「255回目の歩き」くりちゃんの高尾山歩き, 2002.4.7. http://www.kurichan.jp/main251-300/255/255main.htm ↩ ↩2
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「甲州街道№13 小仏峠~小原宿」街道みちくさウォーク <歩きMENですの原理>, 2013-03-13. https://ameblo.jp/tekutekukapichan/entry-11476717064.html ↩
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「215回目の歩き」くりちゃんの高尾山歩き, 2000.9.30. http://www.kurichan.jp/main158-250/215/215main.htm ↩
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「小仏峠 旧茶屋前にて 登山詳細図のご紹介をスタートしました!!」登山詳細図世話人の日記, 2011-10-24. http://mordred1114.blog.fc2.com/blog-entry-12.html ↩
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守屋二郎 作成・解説・踏査ほか『高尾山登山詳細図 : 陣馬山・景信山・城山 : 全132コース. 新版改訂』吉備人出版, 2024.7. ISBN: 978-4-86069-748-8. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033619196 ↩
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「小仏峠 テーブル修理 カバー張替え」登山詳細図世話人の日記, 2025-11-26. http://mordred1114.blog.fc2.com/blog-entry-770.html ↩
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水野夢絵「旅行記 - 相模湖・各駅停車 - 小仏峠付近」CCSF. https://ccsf.jp/~mwe/tour/2004sagamiko/7.html ↩
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「268回目の歩き」くりちゃんの高尾山歩き, 2002.11.23. http://www.kurichan.jp/main251-300/268/268main.htm ↩
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「甲州街道 小仏峠~小原~与瀬」ユーミーの旅と旅行と, 2004.11.23. http://www.246.ne.jp/~you99/kousyu5.htm ↩
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「小仏峠コース」かっちゃんの歩いて撮ったハイキング記録, 2005.08.01. http://kattyan.dyndns.org/siroyama/kobotoketougekousu.htm ↩
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「小仏峠近くの廃墟と化した茶屋を通る 高尾山から相模湖へ その5」とくとみぶろぐ, 2010.11. https://tokutomimasaki.com/2010/11/takaosan05.html ↩
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『郷土史研究ノート』15, 練馬郷土史研究会, 1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/9640618 ↩
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八王子市郷土資料館 編『旅だちの民俗 : 特別展図録』八王子市教育委員会, 1982.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://doi.org/10.11501/12168673 ↩

